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2012-03-03

仕組みによる思考停止について


信号が赤だった。車はこないけど止まった。
さっき、自転車乗ってて。
そのとき、思い出したのは駅のホームに列を作って待つシーン。
そう、ここ東京では赤信号ではだいたいの人が止まって、駅では並ぶのが常。
体が自然とそうするように、半ばDNAに組み込まれている。
これはひとつの仕組みだと思った。
その場所、場所の仕組みがある。
信号が赤だった。でも車はこないから渡る。
すごく詰めて並ばないと割り込みされるから、詰め気味に並ぶ。
これもひとつの常。そんな場所のDNAも自分の中にはある。
自分の中に赤信号を止まる、止まらない、のふたつの仕組みが混在しているとき。
これは選択肢が頭の中にある状態となる。
その場所の仕組みに従っていても、もうひとつの仕組みが反応するので、
少しだけ意識的になる。私はこの状態が好きだ。
自然に体がそうするというのは、思考する以前の話であり、
そのものがなんであるか、とか、そうすることでどうなるか、
という疑問をもたずして、やっていることである。
それが一番、その場所で生きる上で合理的な行動なんだとおもう。
つまり思考を介さずにおこなわれている活動。仕組みによる思考停止。ある意味、合理的。
国民性とかとも結びつく。
それが怖いともおもった。
同時に、うまく利用すればとても良いかも、とも。
たとえば、学校・家庭・地域・文化として子ども時代に、
「愛着」を感じ取り、作り出す能力ができたら。
なんか、世の中形骸化していて、実際機能していないものも多いのに、
思考停止しているものが自分の中にたくさんある気がしてならない。
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